広島県福山市川口町

中山外記の墓(なかやまげきの墓)

西の土手跡の記憶をとどめる外記の墓

寛文十一年(1671)に干拓された川口新涯。東土手築堤は上田玄蕃直次、西土手築堤は中山外記重直が責任者と伝えられていた。
二百年の時が経ち、時代は明治から大正へ。しかしこの二人の名が忘れ去られることはなかった。青年団の手で、干拓の恩人の墓が土手跡に移された。それは外記の墓ではなく、小場兵左衛門の五輪塔であったのだが、郷土の恩人を崇敬する気持ちは揺るぎなかっただろう。
現在、西の土手跡には、小場兵左衛門の五輪塔と共に300年以上の時を越え里帰りしてきた外記の墓が並ぶ。干拓の恩人が、これからも末永く安住できることを願ってやまない。

左から「中山外記の墓」「小場兵左衛門利之の墓」「相撲取り宝川福松の墓」「天勇庵」の建物。この場所がかつての西の土手跡。川口新涯の東土手には玄蕃社が祀られ、西土手には延宝元年(1673)、中山又兵衛重澄が泉龍寺の末寺として「天勇庵」を開基したといわれている。大正時代、対抗意識が強かった川口東と西の青年団は東と西の土手にそれぞれ、干拓の恩人の墓や相撲取りの墓を競って建立した。

平成15年(2003)建立の中山外記の墓。実際の墓は、近年、京都七本松の茲眼寺で発見された。水野家改易後、外記は京都伏見で浪人し、正徳4年(1714)4月2日にその地に葬られていた。

茲眼寺から譲り受けた墓は、新墓の裏側にぴったりくっつくようにしてある。朽ちかけた姿で、側面に「生国備後福山 俗名 中山外記重直」と刻まれている。

小場兵左衛門利之の墓。長らくこの五輪塔が中山外記の墓だと考えられていた。大正時代、川口東の青年団が上田玄蕃の墓石を妙政寺から持ち帰り川口東の土手に祀ったのに対抗し、川口西の青年団有志が中山外記の顕彰のため、誤って小場兵左衛門の墓石を持ち帰ったためである。

天勇庵に祀られている掘り出し観音。