神石高原町時安

久留美の里

若き勝成の姿に想いを馳せて

水野勝成が青年時代、備後の地を流浪していたのは、よく知られているが、その足取りは数多の伝説や逸話に彩られている。久留美の里にも、若き勝成が寄宿したと伝わる吉岡家がある。ふらりと立ち寄り当主と意気投合したのか、この風土の心地よさに気持ちがほぐれたのか。なるほどと思わせる風情が今も里の空気にたゆとうている。

時は南北朝時代。楠正成のひ孫正世(正秀の子)が吉岡と改め、応永十三年(1406)久留美の里の豪族金山与四郎を討ち登武丸に城を構えたという言い伝えがある。また南朝没落後、正世が久留美の里に落ち延び吉岡家に寄寓し、家の娘タネと結ばれ吉岡家を継いだとも伝えられている。

流浪時代、勝成も何か感じるものがあり、この地に逗留したのだろうか。備後に入封し築城の際には、吉岡正広に命じ天守閣の心柱を求めたという。また藩主となってからも、鹿狩りに来て止宿したと伝わる。母屋の隣にはかつて勝成を迎えるために建てられた陣屋もあったという。

吉岡家は迫る山肌を背に久留美谷を見下ろすように建っている。敷地の隅には鬱蒼とした大樹が聳え、時の重みを伝えている。その隣が亥の平の居館跡で、天領時代は吉岡家が代官を務めていた代官所の跡地である。

六〇〇年以上の歴史を紡いできた里は、華やかな時を経て今穏やかにまどろんでいるように思える。しかしそこに継承していく人がいる限り、楠正世も若き水野勝成も久留美の里に今も生きている。代を重ねていくということは、その地の歴史を紡いでいくことでもある。

久留美(くるび)の里の奥まった場所にある吉岡家住宅。

八幡神社の南方に位置する登武丸の土居の跡。今は熊笹が茂るばかりだ。その先の小丘は八幡神社のお旅所となっている。正世は、登武丸に楠正成を祀る吉岡神社を建てると、「亥の平屋敷」へ移り住んだという。

吉岡家の西側にある代官所跡(亥の平)の石垣。現在は田圃になっているが、中央辺りに石積みが異なる場所があり、そこがかつての門だった場所。