• 福山ぶらり歴史紀行

藤野神社

府中市出口町

庶民に寄り添い、今も人々の心に生きる国手。

国手とは、国の病を治す名手の意味から、名医または医師を敬っていうことばである。人々から国手と慕われたのが、藤野昌言守延。天保3年(1832)福山藩芦田郡府中市村に生まれた。生家は代々医者を営んでおり、昌言も大阪で医学を学び19歳の時、故郷に戻って父の跡を継いだのである。

昌言は、貧しい者からは薬代を取らず、極貧の者には生活費の面倒までみたという。「医は仁術なり」を体現した昌言先生を頼り慕いつつ穏やかな日々を送っていた府中市村の人々も、明治12年(1879)全国的に流行したコレラ禍に襲われる。当時、コレラの治療法は見つかっておらず、未知の伝染病に人々は慄き、成す術もなく多くの犠牲者を出した。その中で、信念をもって治療にあたったのが藤野昌言その人である。亡くなる人も多かったが、救われた人もいた。しかし寝食の暇もなく日夜患者の治療に当たった昌言は、自らコレラに倒れ、明治12年10月6日、46歳でその生涯を閉じたのである。

没後、彼を敬慕した人々は祠堂「古香堂」を建立し、彼を偲んだ。その傍らには「藤野国手祠堂記」が建てられその遺徳が刻まれた。

没後143年、古香堂は藤野神社となり出口町の小高い丘に建っている。未知の伝染病が蔓延した当時、コロナ禍の今とは比較にならないほどの恐怖の中、どれほど人々の拠りどころとなっていたことか。今なお府中の人々の健康を見守っているのかもしれない。

藤野神社(祠堂「古香堂」)2021年9月29日にRCCで「名医死す 感染病と闘った藤野昌言物語」という番組が放映された。1年間RCC動画配信サイト「RCCPLAY」で視聴可能。

藤野神社の横にある「藤野国手祠堂記」。遺徳が刻まれている。

府中公園は桜の名所で、近くには「首なし地蔵」もある。

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