• 福山ぶらり歴史紀行

笠岡街道~吉浜の道開通記念碑

笠岡市吉浜町

街道が語るのは浪漫ではなく歴史そのものである

水野福山藩領となった笠岡は、当時から賑わいをみせていた。勝成が置いた笠岡奉行は慶安の頃(1650年前後)まで、職能・権限も強大で大代官も兼ね、笠岡村の町方・村方ははもとより水野領備中国一円の郷村を支配した。そういう時代に干拓されたのが吉浜新田である。

勝成入部の頃は吉浜村はなく、そこは遠浅の海であった。福山から笠岡へ行く道は用之江から大下村を通り、生江浜から渡し舟で西浜へ渡り、東へと進んだ。寛文元年(1661)水野勝貞の治世に吉浜新田ができるのだが、笠岡街道は勝成の頃のままであった。

新田ができてから六○年以上経った享保時代(阿部正福の治世)に吉浜新田の堤防の補強と排水樋門の整備拡張が行われた。それにより、堤防上を道路として利用できるようになり、享保一七年(1732)に笠岡から西浜・吉浜経由の「福山往来(笠岡街道)」が開通した。昭和三○年代に国道2号が現在の路線に改良されるまでは、福山市へ通じる唯一の幹線であった。

備後国と備中国を結んだ街道は、人や物資を運びながら進化を続け今につながっている。

笠岡街道沿いにある吉浜の道開通記念碑。「享保十七壬子天此道成就」と刻んである。江戸時代の道路開通の碑にはなかなかお目にかかることはできない。水野時代が終わると福山藩から天領となるが、福山と笠岡の往来が衰えることはなかった。

享保年間に補強整備された堤防の跡。現在は全くの町中の風景である。向かって右手が海側で左が干拓地だった。

享保15年に整備された東水門の現在の姿。梁行2間半・桁行3間の上屋に扉上下6枚つけた水門であった。

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