福山市東深津町・引野町

深津畷

一本の道の先に見えるものは福山の未来だった。

水野勝成は福山城築城し城下町を作ると、周辺の新田開発を行った。寛永年中には野上新開や吉田新開(現・春日池以南の春日町)を造成し、正保元年には市村沖新田(現・南蔵王町)ができた。遠浅の浜に土手を築き、干拓地を作ったのだ。その時に築いた土手が、深津畷である。

笠岡街道としても利用されたこの道は、東深津町の米座から、南蔵王の高崎(こうざき)まで一直線に続いている。

中世までは浜であったこの地に1本の土手が走る。3年ほどでその南方に千間土手(現・国道2号の南側)ができ、深津の土手道は畷(真直ぐの長い道、あぜ道)となり、やがて往還(主要道路)となる。

古くは浜、土手が出来てからは南側が海で北側が干拓地、時をおかずして、海岸線ははるか南に後退する。

現代、町中になってしまったこの道を通っても、海辺の風景を想像することは難しい。しかし、まっすぐのこの道を歩んでいると、福山という地の未来を夢見て、勝成がここに1本の土手を築いた、その思いにほんの少し触れることができるような気がする。

「米座」の四ツ辻より南東方向を見る。少し左へ折れた地点に地蔵の祠があり、そこから一直線に深津畷が延びる。

米座倶楽部の前にある道標。「右 かさ岡 左 ふく山」とある。

蔵王病院の西の麓から少し西にある「鍋蓋の常夜灯」。文化13年(1816)造立。建造当時の様子が詳しく記録に残っている。

鍋蓋常夜灯のある場所から深津畷を西方向に望む。