福山市箕島町

釈迦ケ端のお釈迦さん

水野時代から福山を守ってきたお釈迦さま。

江戸時代、瀬戸内海から福山城へ出入りできた入川。そこへ入る玄関口である箕島、その北東の岬の突端に一体の釈迦尊像が造立された。そこには金剛山般若院という庵も建立され、一月・五月・九月にここで般若心経が唱えられたという。

このお釈迦さんには二つの逸話がある。ひとつは水野勝貞の御代、旱魃があった年に勝貞が帰依していた泉龍寺の鷟翁和尚に雨ごいを命じ、和尚は夜明けから崖下で結跏趺坐して祈ったが、潮が満ちてきてあわや海中に没しようとする時、黒雲が湧き暴雨がおこり国中が潤った。勝貞はいよいよ深く和尚に帰依したという。後に太白和尚と大檀那の中山将監や中山兵右衛門などが講を結びここに石仏を造立した。以来、この地は釈迦ケ端と呼ばれるようになった。

もうひとつは、水野氏御代に御家中と町衆が護穀成就と破船除けの為、釈迦尊像を石仏にて建立、あわせて金剛山般若院という庵を建立したというもの。

前者は『備陽六郡志』に、後者は嘉永の頃、寺社奉行に提出された願書に記されていた内容である。

お釈迦さん。昭和41年(1966)箕沖埋め立てにともない潜り岩にあった石仏を釈迦ケ端山中に移動、平成4年(1992)に福山テクノ団地造成のため、現在地に移動された。『水呑町史』によれば昭和20年頃には台座しかなかったとある。

台座部分には太白和尚が書した碑文が今も残る。薄くなって読みにくいが、全文が『備陽六郡志』に収録されている。

白石島沖に領主の船がさしかかり、先触れの船がやってくると、釈迦ケ端に置いた遠見番が烽火をあげ福山城へ知らせた。その烽火をあげた跡とされるのろし台。釈迦ケ端は城下への船の出入を見張る福山防御の為に非常に重要な場所であった。

今はすっかり町中に埋もれたかつての海岸線。干満時に潮が早く流れる澪筋(みおすじ)が箕島沖から福山舟入へ通じている。釈迦ケ端はちょうど澪筋にあたり、領主の大型船出入りに際して、水呑村は番船を出して暗礁の位置を知らせ安全を計っていた。水呑村は常に海とともにあった。