• 福山ぶらり歴史紀行

山中鹿之助の首塚

広島県福山市鞆町

山陰の名将の首塚が、鞆の浦にある理由。

実名は山中幸盛だが、通称の鹿介(しかのすけ)の方が一般的だ。
山中鹿介は尼子氏の重臣で、数々の武勇伝を持つ猛将であるが、よく知られているのは、永禄9年(1566)に尼子義久が難攻不落の月山富田城を明け渡し、毛利に降(くだ)ってからのことである。鹿介が尼子の再興を誓い、三日月に「我に七難八苦を与え給え」と祈った逸話は有名である。
捕えられても裏切られてもとにかく生き延びて、尼子再興軍を起こしたこと三度。三度目、天正6年(1578)上月城の戦いで捕えられ、毛利方へ送られる途中、高梁川阿井の渡しで謀殺された。胴体は高梁市の勧泉寺に葬られ、首級は足利義昭のいる鞆の浦へ送られた。義昭が鞆に逃げ延び、この地に御座していなければ、鹿介の首が鞆にやって来ることもなかっただろう。「山中鹿之助の首塚」は儚く消えた鞆幕府の残滓のようにも思える。
※正しくは山中鹿介だが、首塚の刻字は鹿之助となっているため、タイトルはそれに準じた。

備後の山手銀山城主であった毛利方の智将・杉原盛重と、尼子方の出雲の猛将・山中鹿介は好敵手であった。盛重は伯耆にわたり「伯州の神辺殿」として葬られ、幸盛の首は備後の鞆に眠る。山陽と山陰、死しても二人は陰陽の関係だったのだろうか。

首塚は静観寺の門前の道端にある。写真右手にはささやき橋の欄干が見える。

鹿介の首を洗ったとされる井戸は、首塚の裏手の妙蓮寺の塀の内にある。

静観寺は、当時、足利義昭の陣にもなっており、義昭立ち合いのもと、首実験されたと言われる。平安時代初期の創建で、当時は七堂伽藍の備後屈指の寺院だったと伝わる。

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