• ご朱印帳のすゝめ

臨済宗 正覚山 静観寺

臨済宗 正覚山 静観寺

 歴史ある港町・鞆の中でも最も歴史が古く、そして最も多難な寺として知られているのが、今回ご紹介する静観寺だ。
大同元年(806)の創建。最澄が中国で修行を積んだ後、帰りに立ち寄り開基したと伝えられる。当時は七堂伽藍を備えた約7000坪の敷地を誇る壮大な寺で、鞆の港を訪れる船は、寺にある塔を目印にしていたと伝わるほど。
ところが戦禍や落雷などで五度にわたる焼失の憂き目に遭い、寺の多くは失われてしまう。270年前には落雷により五度目の焼失。当時の住職は中国五県を托鉢して歩き、再建を成し遂げたという。本堂前の見事な桜の古木は、その際に植えられたもので、毎年春には美しい花で訪れる人の目を楽しませている。
本尊の「松上げ地蔵」と称されるお地蔵さまは、江戸時代三度の火災に見舞われたが、その都度難を逃れた。江戸中期の大火では身一つで避難した住職がお地蔵さまも焼失したと思い悲嘆にくれながら、ふと庭の松の木を見上げると、お地蔵さまが木の上に座っていたと伝えられる。今なお災難除けの地蔵として親しまれている。

寺横には、戦国時代終わりに毛利氏に滅ぼされた尼子氏の忠臣・山中鹿介の首塚がある。尼子氏の再興を願い兵を挙げたが、岡山県高梁川の「阿井の渡し」で討たれた鹿介。その首は鞆に運ばれ、さらし首にされたが、不憫に思った当時の住職が首塚を建立したという。

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