• 歴史散歩

入封400年記念シリーズ(6)福山における野々口立圃の足跡

明王院

No.313

 戦国武将は戦に明け暮れただけでなく文芸に通じた教養人でした。福山藩初代藩主水野勝成も連歌や和歌に通じ、俳諧の心得がありました。勝成により築城当初から福山には文芸を受け入れることのできる素養があったのです。
京都の俳諧の祖といわれた立圃は、2代藩主である勝俊の御伽衆として1651(慶安4)年に福山を訪れます。和歌や連歌、書画、俳画に長じた立圃の作品はユーモアがあります。福山にも多くの弟子や同好者がおり、藩士や町人衆にも俳諧や和歌が広まりました。
福山滞在中の立圃は水野勝成の追悼記や、勝俊が江戸藩邸で亡くなったことを残した「信解院殿御臨終記」を記しました。また草戸を中心にした紀行文「福山近在名所記」は著名です。
その文中の「ほとほとと たゝけ草戸の 子規」の句は、地名を草土から草戸に変更する要因となりました。
草戸の明王院は水野家の祈願寺で立圃とも密接な関係がありました。立圃直筆の文書などが伝わっており、市重要文化財に指定されています。
現在も福山では俳諧をたしなむ人が多く、市民大学や公民館でも教室が盛んで俳句人口は増えています。

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