どんどん池

入封400年記念シリーズ(4)上水道の整備

No.311

 福山藩初代藩主水野勝成は福山城の築城とともに城下町を造ります。勝成は近隣の村や町から人を呼び寄せるために「敷地を開く」ことを許し、地子(固定資産税)や諸役を永代免除としました。これにより多くの人が移り住みましたが、当時城下町では飲料水を手に入れることが困難でした。芦田川河口の三角州上に城下町が造られたため、井戸を掘っても塩気・鉄気などを含んだ水しか出てこなかったからです。そこで勝成は井戸に代わり上水道の整備に力を注ぐことにしたのです。
芦田川から吉津川を通じて引き込まれた用水は貯水池の蓮池(どんどん池)に蓄えられました。この池でごみやほこりを沈殿させた水を上水道に活用したのです。蓮池からは取水のための幹線が主に3本造られました。城の北側の護国神社と城山の間を掘り切って城東を通る幹線と西町を外堀に沿って南下して城南地域を通る幹線、御手洗川から吉津村へ通る幹線です。
城下町にある侍屋敷や町方には、道の中央に溝を掘ることで上水道が通されました。しかしこの溝は往来や商売の妨げになったことから、石の溝蓋を被せて暗渠(地下水路)にされました。町の四辻など主要な場所には、水が使えるように貫洞という方形の井戸状の水溜めが設置されました。飲料水はこの貫洞から木管・竹管で水が引かれることで各戸へ配水されました。
福山に造られた城下町の水道敷設は中四国地方で一番古い上水道といえます。現在、蓮池東側には記念碑(写真)が建てられ、400m東には御手洗川取水口の石組みの遺構が残されています。