むろの木歌碑

実はつながりがあります 新元号「令和」と「鞆の浦」

No.310

  新元号「令和」は「万葉集」の大伴旅人が詠んだ「梅花の歌三十二首」の序文を出典としています。
政治家で歌人でもあった大伴旅人は当時権力を握っていた藤原氏に次第に圧迫され、64歳という高齢の身で奈良の都からはるばる九州の大宰府に、大宰帥(大宰府長官)として、妻・大伴郎女を伴って赴任します。しかし赴任後間もなく最愛の妻を失い、その代償のように歌を詠むようになりました。
730(天平2)年、旅人は九州各地の高官を大宰府の自宅に招いて梅花の宴を催しました。
「令和」はその宴の中で詠まれた梅花の歌の序文「初春令月、気淑風和(初春のよき月、気はうららかにして風は穏やか)」に見られ、美しい景色をたたえる優雅な漢文です。
万葉集に遺された旅人の歌は70首以上あるといわれ、そのほとんどが大宰府赴任後のものです。
梅花の宴が行われたのと同じ年に大宰帥を兼任したまま大納言となった旅人は、念願かなって帰京します。しかし途中の鞆の浦で、旅先で亡くなった妻を思い出し、嘆き悲しんで歌を詠みます。

我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そなき   大伴旅人(「万葉集」巻三、四四六)
※(大宰府へ赴任する際)妻と一緒に見た「むろの木」は、今も変わらず鞆の浦にあるのに、妻はこの世にいない

都へ帰った後も旅人は妻をしのぶ歌を詠み、翌731(天平3)年7月に亡くなります。
市営渡船場の向かいにある対潮楼の石垣の下に、旅人が詠んだ「むろの木」歌碑があり、「むろの木」は鞆の浦の歌枕となっています。