• 歴史散歩

入封400年記念シリーズ(3)松永塩田の開発

松永塩田

No.309

  江戸時代に干拓された村には新たな産業として塩・木綿・畳表の生産が奨励され、福山藩を代表する産物になりました。
福山藩3代藩主水野勝貞以後の干拓を進めた中心人物は本荘重政です。重政は軍学修行で諸国を遍歴するとともに赤穂藩で塩田築造の技術を学んだ後、福山藩へ帰藩します。重政は遠浅の松永湾沿岸に塩田を築造することを勝貞に献策し、1660(万治3)年に藩の事業として着手します。その後、48もの塩田が松永に完成したのは1667(寛文7)年頃といわれています。
これを機に羽原川下流の山裾には塩田で働く人たちの村が生まれます。高須村に居住していた重政も現在の本荘神社がある丘に転居し、末永く栄えるようにと「松寿永年」にちなんでこの地を松永と名付けます。その後、北前船の西回り航路整備により松永塩の販路は拡大。また浜役所設置によって品質を保ち粗製乱造を防いだことから、その評価は全国的に高まります。
塩田経営には当時の先進地であった竹原の出身者が多く従事しており、重政の下で塩田を完成させた笠井小四郎宗清もその一人です。重政は宗清の功績に報いるために稲荷神社を創建して塩田の守護神として祀ります。さらに鎮守として潮崎神社を柳津村から移すとともに、本荘家菩提寺の承天寺も福山から現在の場所に移しました。
今も承天寺からは松永湾が一望でき、眼下には塩田跡にできた新しい松永の町並みが広がっています。
(今月号から2020年3月号まで福山城博物館友の会が執筆します)
承天寺から見た松永市街

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