• 歴史散歩

入封400年記念シリーズ(2) 上井手川の難工事

上井手川

No.308

  同シリーズ(1)(2019年4月号掲載)の干拓の他にも17世紀中頃、福山藩2代藩主水野勝俊の時代に東部地域の市村沼田や深津沼田、引野沼田でも干拓が始まります。
干拓によって成立した村々の水田には農業用水が必要となります。当時の水源はため池であり、村が増えたために農業用水が不足してしまいました。このため、芦田川から用水路を引く工事計画が立てられることとなりました。
芦田川の左岸に当たる本庄村の幸崎に取水口が造られ、そこから取り入れた用水は1kmほど下流の二股で上井手川と下井手川(丸川)に分水されます。上井手川は流域の村々や干拓地の農業用水に利用されました。
上井手川は木之庄や吉津、奈良津、深津の村々の山際を流れて市村(蔵王町)に入ります。市村に入った用水は干拓された村々の水田を潤し、天当山の樋門から瀬戸内海に放流されました。
二股から市村まで総延長約8.5kmの農業用水を流すためには川底を1,000分の3の勾配で掘り抜く必要があります。この工事は困難な工事となり、多くの村人が動員されました。中でも、現在の誠之館高等学校(木之庄町)の南側と綱木峠(蔵王町)は、丘陵を切って勾配を確保しなくてはならない難工事でした。綱木峠では現在の道路面から川底まで約7mの深さで掘削されています。
このように福山藩と村人によって築かれた上井手川は地域に受け継がれ、今も現役として活躍しています。

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