• 歴史散歩

わが国の学制の先駆け 啓蒙所の設立

啓蒙所

No.323

 1868年(明治元年)から、福山藩が藩校を中心に実施した教育改革は、福山藩大参事で中央政府集議院議員の岡田吉顕が1870年(明治3年)に政府に上程した「藩治本論」の学制論を基に、さらに推進されました。
岡田は、幼児期からの教育を重視し、容易に学習できる仮名を主体とした教科書の整備を提言するなど、新時代に即応できる人材の育成を目指しました。しかし藩の財政事情などから福山藩内全域に教育を普及させることは困難でした。
こうした状況下、安那郡粟根村(現加茂町粟根)の医師窪田次郎は、すべての子どもが平等に学べる学校の設立に向け、藩の協力の下に、「啓蒙所」と名付けた民衆初等教育機関の設立運動を起こしたのです。
まず啓蒙所設立・運営の財政的基盤となる啓蒙社を設立し、町村役人・豪農商層を世話人として村単位に資金を募集しました。その後、啓蒙所1カ所の年間経費(米5石)が集まった所から、寺院などを利用して啓蒙所を開設していったのです。
最初の啓蒙所は1871年(明治4)年2月に深津郡深津村(現東深津町)の長尾寺に同村庄屋の石井英太郎らを世話人として開設されます。その1年後には町村約160カ村の約半数に当たる70カ所に開設されました。
全国に先駆けて民衆の力で設立・維持された啓蒙所は1872(明治5)年の「学制」公布後には小学校と見なされ、さらに発展していくのです。
窪田次郎生家跡

PAGE TOP