妙政寺

市史跡 水野勝俊墓域

忠臣と共に眠る藩主の墓

 福山城北西の丘陵にある妙政寺墓地(北吉津町)内に,福山城二代藩主水野勝俊の墓があります。
勝俊は,慶長3(1598)年,初代福山藩主水野勝成の嫡男として生まれ,後に徳川譜代の臣として大阪冬・夏の両陣や島原の乱に参戦し,父勝成とともに戦功を上げています。
元和8(1622)年,父勝成が福山城を築いて入城すると,勝俊は鞆で海防の任にあたり「鞆殿」と言われていました。
寛永16(1639)年,家督を継ぎ,藩主として福山城に入城した二年後の寛永18年,西日本一帯が大旱ばつに見舞われました。その時,妙政寺の光照院日遵に命じて雨乞いの祈祷を行わせたところ降雨があったことや,娘の万寿姫が病に見舞われた際にも祈祷を命じたことから,勝俊は妙政寺に帰依し,一代限りの菩提寺としました。
承応4(1655)年,勝俊が江戸藩邸で死去すると,その遺骨は妙政寺に葬られました。勝俊の墓は,周囲を石塁で護られた南北25m・東西18mの長方形をした広い墓域の奥の一段高い場所にあり,墓標は高さ5mに及ぶ巨大な石製五輪塔です。そして,同じ段上の西傍らには愛娘の万寿姫の墓があります。
一段下の前面には,勝俊の後を追って殉死した7人の側近の墓が二列に並んでおり,その東側には,勝俊亡き後のお家騒動を抑え,妙政寺と勝俊及び側近達の墓を東町から現在の地へ移転して整備した水野玄蕃とその妻の墓があります